学童疎開展示
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機銃掃射で亡くなった神尾明治くん
当時、原国民学校3年生の神尾明治くんは、 相即寺の近くの隣保館で生活していた。
7月8日P51戦闘機の機銃掃射でなくなった。
のちに、 品川区内の校長になった北川菅雄さんは、 当時 6 年生で、 神尾君が撃たれて亡くなる現場に居合わせた。 安全なはずの学童疎開で下級生が亡くなったことは生涯忘れられず、子どもたちや地域で語った。 「しながわ平和のための戦争展」でも証言をして、 写真や作文をいただいた。 (亡くなられたのが残念である)
ぼくたちのいくさごっこ
ぼくたちのいくさごっこ
ぼくたちのいくさごっこ
学童疎開の日記
品川区はどこへ行ったの?
当時、 束京は35区に分かれており、 現在の品川区は品川区と荏原区にわかれていた。
荏原区は
富山県11校4000名
静岡県5校1500名
(計 5500 名)
(静岡県は米軍上睦の恐れがあるということで20年になって青森へ8時間もかけて再疎開した。)
品川区は都下多摩地区へ6561名が疎開した。
多摩地域では20年5月から空襲があり、宿舎が焼けたり、焼夷弾で亡くなる子もいた。
(原国民学校、第一日野国民学校の児童)
品川の学童疎開
米軍の本格的な本土空襲に備えて、 政府は都市防衛の強化と学童身命の防護を目的に、 学童集団疎開を決定した。 子どもを戦火から守るというより、 次の戦力を温存するという意昧があったという。
対象は、 国民学校初等科3年~6年までの縁故のない学童。 保護者からの申請によった。 20年3月からは、1年も対象になった。
学童は教師や寮母などと、学校ごとに寺院や神社、 集会所、 旅館などを宿舎として生活した。
保護者は生活費の一部として月10円負担した。負担が大きく疎開できない児童もあった。
昂川区では、7月16日に国民学校長会議で都から訓示があると18日には各校で保護者会。 8月4日には城南第二国民学校が第1陣として出発するという慌ただしさだった。