小島義一さんの描く城南空襲の絵
小島義一さんの体験画をもとに、映像作家の鈴木賢士さんが「品川が焼け野原になった」を制作しました。
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小島義一さんと品川
2001年撮影
小島さんは、小平在住で「小平平和のための戦争展」にかかわっていらっしゃいました。2000年小平の戦争展で品川の空襲体験の絵が展示されているとの情報から、小島さんにお会いし、品川で展示させてほしいとお話しました。小島さんは品川区の空襲でも最も激しかった荏原のあたりで体験したことを絵にされていました。「私は、話すのは不得意だから絵で戦争の悲惨さを伝えたいと思った。」とおっしゃり、品川の方々にぜひ見てもらいたいと、最初に12枚の絵を貸してくださり、それから次々と「100枚まで描く」と描かれた絵を寄贈してくださいました。品川区、特に荏原地域は死者こそ多くありませんが都内最大という焼失面積で、写真がほとんどありません。貴重な資料として、毎年区内で展示と共に、体験者を探して証言していただいてきました。
しんぶん赤旗「人」に小島義一さんのインタビューが掲載されました
「泣きながら描いています」。十三歳、工業学校一年生のときに体験した米軍空襲。今の子どもたちにも見てほしいと、水彩の抑えた筆致で描いています。
終戦の年の五月二十四日。東京の荏原(えばら)区(現・品川区)西中延(にしなかのぶ)でした。束のようになって落ちてくる焼夷(しょうい)弾。火の海の中を祖母、父、四歳の弟と逃げ惑いました。
「城南空襲の絵に寄せて」小島義一
5月24日が来るたびに、空襲のサイレンの音、「ザアザア」と焼夷弾の落下する音、炎に包まれ逃げまどったこと、思い出されます。敗戦の日、戦争が終わったということが日がっ経つにつれ生き残った喜び「食べる食べたい」に追われていましたが、平和のすばらしさを焼け跡の中で感じた日々でした。今、改憲、戦争する国に向かおうとする怒りに、戦争へ戦争へと向かう不安でいっぱいです。戦争を起こさないためにも語り伝えてくださることを願います。
小島義一さんからのお手紙
昭和20年(1945年)5月24日夜、品川区中延でB29より空襲を受け逃げ回った体験を絵にかきました。その夜、B29 の爆音が激しく夜空に響くとともに。火柱がいくつも上がって見る見るうちに空は赤く明るくなりました。父は、「今夜は危ないようだ。洗足池へ逃げろ!」と言って家を守るために残りました。当時13歳だった私は、杖をついた祖母と弟(4歳)と3人で(母は10歳の時に亡くなった)空から火の束となって雨のように降ってくる焼夷弾を避け逃げ回りました。逃げる途中で、まじかに落ちた焼夷弾の大きな火柱を避けているうちに私は、祖母と弟を見失い、はぐれてしまいました。幸い、夜明けに路上にうずくまって座っていた無事の二人に出合い、心の中で「父に怒られずに済んだ」とほっとした思いでした。
父は家を守ろうと逃げ遅れましたが、立会川の中で周りの人たちと水を掛け合い励まし合って、幸いにも生き延びましたが、父の顔は火傷で赤く腫れあがっていました。
この絵は、その時の忘れがたい体験と印象と心象をもって描きました。しかし、空襲の時の無差別な絨毯爆撃、火に追われる怖さ、悲惨な焼死者、どこまでも続く焼け跡……、自分の筆力ではとても描き切れません。亡くなった方々の無念の思いを察すると、戦争は二度としてはいけないという思いでいっぱいです。
(この手紙は2000年のしながわ平和のための戦争展で12枚の城南空襲の絵を初めて展示し、その時にいただいたものです。2000年当時、憲法調査会設置、国旗国歌法成立等の戦争へ向かう足音に封して封印していた記憶を伝える決意をしたと思われます)
昭和20・1945年5月24日(城南空襲前)の記録
父帰る 友人の父が死亡した。昭和18年冬
多摩川で相田氏 飛行機銃撃を受ける
いも、買い出し中 敵機に攻撃受ける
戦意向上の防空演習始まる 指導者は広場に集めて「焼夷弾はこうやって消す」と、むしろ・厚いゴザ・俵に水をかけて消し訓練して見せた。東京は数万発の焼夷弾で灰になった。広場は現荏原五中。戦前は、畑と空き地と防空壕になっていた。
焼夷弾を消す訓練は始まる 旗の台の広場(現在荏原五中)で住民を集めて訓練をする。
大田区馬込 爆弾により軍馬の死
馬込に爆弾が落ちたというので、友達と見に行った。大きな穴が開いていた。友達と爆弾の破片を拾って帰った。
建物疎開(強制疎開) 空襲で火災が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火帯を設ける為に、建物を撤去した。本土空襲に備えて行われた強制疎開は、学童疎開より一足早く行わた。
航空兵が生きていた 男性がアメリカ兵を殴らせてと大騒ぎしていた。身内が空襲で死んだとのこと、近所の人が話した。注;戦死か空爆死か不明。記憶がはっきりしていない。
昭和20・1945年5月24日(城南空襲中)の記録
庭の防空壕に荷物(西中延4丁目児島宅 昭和20年5月24日夜半)今日は危ないとあわてて荷物(布団、衣類類)を入れて土をかぶせた。焼けた後掘り出したがほとんど使用できなかった。祖母が悔しくて残念と声をあげて何度も叫んだ。
あちこちで火柱があがった。火は風を呼び怒った火は吹き荒れる。罪のない人々に火は吹き付けた。
火柱があがった 昭和20年5月24日夜 父、私、祖母、弟。父が洗足池に逃げろと私にいった。父は残るからと…
火の中にいた 昭和20年5月24日夜 ザザザッと空気を切る音がした。爆弾か 火柱があがった。
女性が焼夷弾をあびて水を求めて逃げたきた。 昭和20年5月24日夜
逃げまどう 亡くなった方々は、自分が火の中を逃げた百倍も千倍も万倍も熱かった。恐ろしい、苦しい、悔しい、熱い、無念の思いがしたのです。
火に囲まれて!一人残った父は、立会川に逃げる
火が消えるのを待つ 昭和20年5月24日から25日 荏原区はB29の空襲で火の海になり、焼夷弾で火と煙とで死の街となった。焼死者多数、家々は灰となった。旗の台広場(現荏原五中)には、生き残った人が火の消えるのを待ちながら不安な時を過ごしていた。
逃げおくれた人たち!! 昭和20年5月25日 父親は火に追われ立会川の水を求めて逃げまどった。人々は声をかけ合い水を掛け合って励ましあったと後日父が語った
あちらこちらで火柱があがった 昭和20年5月24日から25日 火は風を呼び怒った火は吹き荒れる。罪の無い人々に火は吹き付けた。
防空壕の中で焼かれる 後日、私の友人が話してくれたことを絵にした。
荏原町炎上
火の中から逃げてやっと生還 昭和20年5月24日 中原街道
火をあびる
焼夷弾の炎を受けた女性が水を求めてきた。 昭和20年5月24日夜中 中原街道付近 防火用水にはバケツがなかった。私は木の枝を折って防火用水につけ、何回も何回も焼夷弾の火をたたいて消した。
火の中から逃げてきた 昭和20年5月24日 焼夷弾の油脂の火をあびた女性が逃げてきた。
B29が焼夷弾の雨を降らした 母も子も老人も家まで焼き尽くされた。多くの人が火だるまになって焼き尽くされた。
昭和20・1945年5月25日(城南空襲後)の記録
母と子 昭和20年5月25か26日頃 旗の台 「あと数百米は 逃げれば助かったのに」父静雄が言った。その先の一角は焼け残った家々が並んでいた。
東京空襲 生き残った人 生を失った人 数時間前はみんな元気でした
火の中で死んだ親子 荏原町、中延
東京空襲(荏原区中延) 昭和20年5月24日 焼死体に「お母ちゃん」
火から逃れるため水を求めてここに来た。 源氏前小学校近くの川
黒い手・焼死体 昭和20年5月24日 人々は水を求めて焼死せざるを得なかった。中延のどぶ川に焼死体が黒く重なっていた。荏原区中延の小さなどぶ川
昭和20年5月25日朝 荏原区旗の台 中延 旗の台広場(現荏原五中)は、家々が焼き尽くされるまで人々でごった返していた。朝なのに煙で黒く太陽の光はぼんやりしていた。隅の方にうずくまっていた祖母と弟を見つけた。近所に人がくれたおにぎりが二つあった。私は大きな泣き声で「おばあちゃん」と叫んだ。「お父ちゃんは大丈夫だよ」という声が返ってきた。
祖母と弟を見つける。昭和20年8月25日の朝。日本光学の黒く焼けた建物が見えていた。荏原の街は熱風が吹き荒れ焼き尽くされて下火になっていた。旗の台の高台で火が消えるのを待つ人たちの中に、祖母と弟がいた。
火傷の顔と黒いおにぎり 昭和20年5月25日 焼夷弾の火をあびた黒い臭いおにぎりを食べた。油臭いがしたがおいしかった。生きていると感じた。親類の家に避難した。道路があったので、そこで火が止まっていた。父と隣人たちが昭和病院から帰ってきた。火傷で顔が赤くはれていた。みんな、生き残った幸せを感じ合っていた。(荏原町近く)
眠れない夜が続く 昭和20年5月27日頃 祖母と弟を連れて防空壕へ。長原へ移った。連日連夜空襲があった。近くの防空壕は10人も入ればいっぱいで、焼夷弾一発で全滅する。今思うと、たよりないぞっとするものだった。
荏原町駅 昭和20年5月28日頃 工場へ、学校へ向かう人たち。焼跡には家族、知人を探す人達がいた。
立会橋が黒く焼け残った。 昭和20年5月27日28日頃 橋が黒く焼けて今にも崩れ落ちそうだった。突き抜けた焼夷弾の穴が開いていた。その橋をゆっくり渡った。 荏原町付近
旗の台小学校正門 焼夷弾がコンクリートを打ち抜き、二十数発の黒い六角の穴を開けていた。
旗の台小学校正門 六角の焼夷弾穴。焼夷弾十数個がコンクリートに深く刺さっていた。この下にいたら、人は黒こげに焼き尽くされていただろう。
焼死体が集められた 焼死体を焼くのはつらいです。58年間頭の隅に閉じ込め重いふたをしてきました。しかし、「戦争は2度としてはいけない」と(亡くなった方も同じ思いでしょう)平和の思いを込めて描きました。焼死した人々に「おゆるしください」と話しながら「生命があればきっときれいに描けたのに」悲しみと怒りででいっぱいです。
大井町線(田園都市線) 大井線の電線に熱風で飛ばされたトタン板がいくつも絡まっていた。祖母と弟を成田へ疎開させるため、区役所発行の罹災証明書を持って国鉄の大井町駅まで歩いた。途中、佐倉で空襲に遭い、汽車はトンネルの中に3時間ぐらい隠れ退避した。 注;罹災証明書を見せると鉄道は無料になった。
父と家を焼いた焼夷弾を掘り出す。
昭和20年5月下旬 焼夷弾の集積所の隣に多くの死体が積まれてあった。自分の家に落ちた焼夷弾を運んだ。そこには、死体と焼夷弾が山と積まれてあった。
不発弾爆発 バーンと大きな音がしたので私は駆け付けた。血だらけになった人がいた。その人を支えていた人が「医者だ」と叫んだ。空襲を受けた東京は、いたるところに不発弾があった。
焼跡から大釜を掘り出した。(毛筆で書いたものが絵に挿入されている) 千葉県遠山村の祖母の疎開先にとどけた。祖母は大切な大釜だと喜んだ。その大釜に、人参、カボチャ、さつまいも、弟がザリガニを7,8匹とって雑炊に入れた。食べる幸せを感じた。
昭和20年5月25日から26日27日 荏原区旗の台、中延、戸越
荏原区全滅 昭和20年5月末日の頃 成田へ移動 焼けて大井町線は不通だった。長原から大井町(国鉄)まで、祖母をかわるがわる負ぶって父静雄と叔父龍雄が歩く。自分と弟(4歳)将之と焼け野原を歩く。赤く焼けた土や瓦礫が続いた。成田へ行く途中佐倉で空襲に遭う。
焼死体 真っ黒な焼死体は顔の形がわからなかった。真っ黒な人の姿をした人々が重なっていた。
5月25日 東京空襲荏原区 焼死体
焼けた硯 焼跡から掘り出した。 昭和20年7月 焼跡から赤茶色に焼けた硯を掘り出した。焼死された人々の姿を描く決心をして、命を失った人々への哀悼を込めて泣きながら描いている。平和の願いを込めてー終戦8月15日。父も大人も「二度と戦争をしてはいけない」といった。あの声を忘れない!
防空壕の中で 昭和20年8月 原子爆弾がおとされた数日後「特殊爆弾で広島は全滅した」と人々は話していた。壕の中は暗くなっていた。