1944年の夏
集団学童疎開
(1) 一九四四年の夏 国民学校では
集団学童疎開
がはじまった
ぼくはそのころ、浜川国民学校の3年生でした。そのころ日本は戦争をしていました。
いつ
空襲
があるかわからない
都会
で子どもたちが
暮
らすのは
危
ないからと、3年生以上の子どもたちは
田舎
の方へ行くことになりました。
学童集団疎開
といいます。
浜川国民学校では、7月22日に「浜川国民学校は
南多摩郡浅川村
、
横山村
(今の高尾山あたり)へ行く」と校長からお父さんお母さんたちに
伝
えられました。
お父さんやお母さんは「まだ小さいし、
身体
も弱いのに」と心配しました。でもぼくは「みんなといっしょに
学童疎開
に行きたい」とせがみ行くことになりました。
(2) 大井町駅にはたくさんのお父さんお母さんたちが見送りに来ました
8月18日10時42分。ぼくたちは
特別仕立
ての
列車
に乗って大井町から出発しました。
いいお天気で、ぼくたちは遠足に行くような気持ちでウキウキしていました。
お父さんお母さんは、「戦争がひどくなって二度と会えなくなるのではないか」と
涙
がこぼれそうになるのをこらえて日の丸の
旗
をふりつづけたそうです。
でも、その時はさびしさなんて感じませんでした。
(3)
疎開地
に着いての初めての夜はみんなかなしくてなきました
浅川の駅に着いたのはお
昼過
ぎでした。駅長さんをはじめたくさんの人が出迎えてくれました。浜川国民学校の子どもは近くのお寺に分かれました。
夕方になって回りが
薄暗
くなってくると大きな木に
囲
まれてシーンとしたお寺はそれだけでも
怖
いものです。急に
寂
しくなってきました。
友だちの小さな
泣
き声が聞こえたと思うと次々になく声が広がっていきました。ぼくも
泣
きたくなりましたが「男の子だぞ」とくちびるをかみしめてがんばりました。
(4) お寺のお
風呂
はとても たのしい時です
ぼくたちのお寺にはお
風呂
があったので、週に2回くらい
順番
でお
風呂
に入りました。
男の子の日、女の子の日が決ってました。
小さなお
風呂
におおぜいが
順番
に入るので、後のほうに入るとお湯が
濁
ってどろんとしていました。お
風呂
の水くみやそうじは班ごとににやりました。
お
風呂
に使うたきぎ取りもぼくたちの仕事でした。それでも、お
風呂
はとても楽しみでした。
ぼくたちのお寺にはお
風呂
がありましたが、お
風呂
のないところでは近くの
農家
に2~3人ぐみでお
風呂
をもらいに行きました。
電燈
など付いていない
暗
い
田舎
の田んぼ道を遠いところは30分もかかって行ったそうです。
(5)
下着
には「しらみ」がいっぱいたかったので、 お
湯
で
煮
てころしました
週に2回はお
風呂
に入っていたのですが、しらみが服に住み着いて
身体
がかゆくなって
困
りました。
かゆくてたまらないので、ぼくたちは
本堂
の
縁側
でシラミ取りごっこをしました。
シラミは
縫
い目にもぐりこんで
卵
を
産
みつけなかなか
退治
できないので、
寮母
さんたちは大きな
釜
にお
湯
をわかして
洗濯物
をぐらぐら
煮
て
消毒
してくれましたが、それでもまたすぐ、しらみが付きました。
(6) おとうさん おかあさんにお手紙をたくさんかきました
楽しみの少ない
学童疎開生活
の中で、
両親
にたびたび手紙を書きました。
内容
は「私たちは
疎開
に来ているので安心してください。お父さん、お母さんたちはお
身体
に気をつけて
防空
に
専念
してください。」といったものでした。
さびしいとか、おなかがすくとかうちの人をしんぱいさせることは書きませんでした。
(7)
面会日
はとてもたのしい日です
家の人との
面会日
は一番の楽しみでした。けれども、家の人が来てくれないときはさみしい気持ちになります。「今度は来てくれるよね。」とお互いになぐさめ合いました。
面会
に来る時、家の人はおなかをすかせている子がかわいそうで、
苦労
して何かおいしいものを持ってきてくれました。
急にたくさん食べるので、次の日におなかを
壊
すことがよくありました。
(8) 夜トイレに行くのはとてもこわくみんなで行きました
お寺の
便所
は外にあります。それでなくても
真っ暗
で長い
廊下
を通って
便所
に行くのはこわくてとても行けません。
となりに
寝
ている友だちを
無理
やり起こしてみんなで
一緒
に
便所
に行きました。
便所
に行くのがこわくておねしょをしてしまったこともありました。お寺の
本堂
の前に
布団
を
干
されるのが
嫌
で、
体温
で
一生懸命
かわかそうとしましたがだめでした。
(9)
山の上のお寺では、冬水不足で20日以上お
風呂
に入れないことがありました。
身体
が
汚
れるとシラミが付くので、
裸
で
寝
かされました。
夜、
便所
へ行くときははだかのまんま雪の道を外の
便所
へ友だちと走っていきました。
身体
が
氷
るようでした。
(10)
食料
はみんなではこびました
ぼくたちは村の学校から帰ってくると小さな
働
き手になりました。
野菜
を売ってくれる
農家
へ
大根
を受け取りに行ったり、山へたきぎを取りに行ったりしました。
農家
の
働
き
盛
りの男の人が
兵隊
に出てしまい。
働
き手が足りないので、ぼくたちが
麦踏
や
桑
の
葉
つみなどの
手伝
いもしました。
(11)
食料
を集める
相談
に来た
米良
さんが亡くなる
私たちの食べ物を先生と
後援会
(今のPTA)の人が夜
遅
くまでかけずりまわって集めてくれていました。
ある日、品川から先生と打ち合わせに来た
米良
さんという人が夜
遅
く
帰
るとちゅう川に落ちて行方不明になってしまいました。
6日後に遠くの(
日野
)の方まで
流
されて亡くなって発見されるという
悲
しい
出来事
もありました。
(12) 先生が
兵隊
さんに行くことになりました
戦争が
激
しくなると、
疎開
についてきていた男の先生までが
兵隊
に行くことになりました。
ぼくたちの先生が
兵隊
になって戦争に行くことになり、みんなで駅に
見送
りに行きました。
(13)
天長節
⦅てんのうたんじょうび⦆はだいじな行事でした
4月29日は「
天長節
」といって
天皇誕生日
が学校の
大切
な
行事
になっていました。
ぼくたちはふだん、はだしか
下駄
で
過
ごしていましたが、式の日はきちんとした服を着てくつをはいて行かなくてはならないので、くつを
大事
にかかえてはだしで学校まで行き、門の前でくつをはきました。
式典
では、「戦争に
勝
つために、みんなも
不自由
をがまんしてがんばろう」というお話を聞きました。
(14)
疎開
から
逃
げ出した
晃
くんは
空襲
に合い
土管
の中でこわい夜を過ごしました。
ある日、両親が住む大井町が
恋
しくて
晃
くんという子が雨の
降
る中、お寺を
抜
け出して
線路伝
いに歩いていきました。
ところが
空襲警報
が鳴り、
焼夷弾
と言って火を
噴
く
爆弾
が空からふってきました。
晃
くんは両親と会うこともできず
土管
の中でおそろしい
一晩
を過ごしてお寺にもどってきました。
ぼくは、そのことを知って家のことが心配でたまらなくなりました。先生は何も話してくれませんでした。
(15) 8月1日
八王子
にも
空襲
があり、お寺は
焼
けてしまいました。
1945年8月1日ついにぼくたちが
疎開
していた
八王子
にも
空襲
がありました。
真夜中頃
ごろ、お寺の
本堂
が
焼夷弾
の
直撃
を
受
けて
焼
けました。
子どもたちはリュックを
枕元
において
寝
ていましたので、それを持ってすぐに
避難
しました。
近くの
防空壕
へ急ぎましたが、先に村の人が入っていては入れませんでした。
先生がぼくたちに「池の中に入りなさい。」とおしゃったので、次々に池に飛び込みました。先生が
本堂
から
布団
を持ってきてぬらしてかけてくれました。
水の中でもあたりが
真っ赤
に
染
まって
熱
さがせまってきていました。
明
け方になってようやく火が
消
えたので
顔
を出してみるとお寺の
本堂
は
丸焼
けでした。
幸
い、みんなけがもなく元気でしたが、その日からぼくたちは住むところがなくなり、他の
学寮
にわかれて入れてもらうことになりました。
・八王子の
空襲
では品川の9つの
学寮
が焼けています。
5月29日3か所、7月6日1か所。8月1日5か所。
(16) 戦争が終わって帰ってきた東京は
焼
け
野原
でした
ぼくたちのお寺が焼けた2
週間後
、8月15日に戦争は終わりました。ぼくたちはすぐにでも家に帰れると思ったのですが、帰れませんでした。
品川も
空襲
をうけてすっかり
焼
けてしまいました。また、帰っても町には食べ物がないということです。
ぼくたちは10月の末にようやく、
懐
かしい大井町へ帰ってきました。東京のお茶の水のあたりを通った時、
窓
の外を見ると、
焼
け
野原
で何にもないのにびっくりしました。
幸
いぼくの家は
焼
けず、
家族
もそろっていましたが、二度と
疎開
なんかしたくないと思いました。
作者:
柳瀬 峰雄
さん
二度とこのような
体験
をすることがないようにと自分の
学童疎開体験
を
文章
にし、
娘
さんに絵を
描
いてもらい
紙芝居
にしてあちこちで
語
りました。
子どもたちに
伝
わりやすいようにと話すたびに
原稿
を書き直したり、
飛
び出す絵本にしたりして
工夫
して自分の
体験
を
語
り
伝
えました。
洋服
の
仕立
やさんだった
柳瀬
さんはとても
器用
で、
疎開生活
を人形にして
表現
したこともあります。
病気
で亡くなる前に品川の子どもたちに伝えて
欲
しいと飛び出す絵本を「しながわ平和のための戦争展」に
寄贈
されました。
今回、飛び出す絵本になっていた絵をスキャンして
裏
に書いてあった
文章
にフリガナをつけ、一部わかりやすい
表現
にしてまとめました。3年生の子どもたちにもわかるようにと本人も
心掛
心掛けて書いたとおっしゃっていました。
柳瀬
さんは、
学童疎開
を
引率
した先生や
当時
視学官
だった
久米井束
先生を
訪
ね、たくさんの
資料
を
収集
し
残
してくださいました。
学童疎開児
の作文や絵は
久米井束
さんが
収集
していたもの
柳瀬
さんがゆずりうけ私たちに
託
されたものです。